稲佐小学校のエノキ

 長崎の林業の取材で稲佐山に登り、その一環で稲佐小学校に立ち寄った。四年前の初春ここで子供たちと一緒に一本のエノキの苗を植えたことがあり、久しぶりにその木にも会ってきた。
 大切にしてもらっていることが、その樹勢からうかがえる。標柱も何度かリニューアルしていただいているようで、「ヒバクエノキ3世」の文字も褪せることなくはっきりと読み取れる。

 長崎に被爆樹木はあまたあるが、このエノキは広島で被爆した木の子孫である。2世は山里中学校の校庭に大きくそびえていて、この木はその種から僕が育苗したものだ。
 1世と2世にまつわる物語が、児童文学者、長崎源之助(2011没)の筆により「ひろしまのエノキ」として描かれている。2世のうちの1本が長崎の中学校にやってきた経緯には、広島の女子中学生と源之助が織りなす物語があった。作家の描いた数ある作品に負けぬほどの美しい物語だが、ここでは割愛する。
 源之助の作家としての原点は大村の旧海軍病院(現国立長崎医療センター)にある。戦地から引き揚げてきた彼が、そこで出会った原爆で傷ついた子供たちとの交流は、2008年「汽笛」という作品に描かれている。彼の絶筆である。

 作家の死後、彼を慕う方々(長崎源之助追悼委員会)が、山里中にあるひろしまのエノキ2世の子供を、原点の地である長崎医療センターに植樹しようという取り組みをされ、その育苗を当時勤めていた長崎県民の森に依頼されたのだった。育てたエノキの兄弟たちは、医療センターのほか、募集に手を挙げてくれた長崎市内12の小中学校に植樹した。稲佐小学校はそのうちの一校だったのである。そのほか長崎県民の森にも植えたので、機会があれば会ってやってください。前述の2作品も置いてあります。

 稲佐小学校で植樹した時のことは、忘れることができない。
 植え終わった後、同行していた追悼委員会の方が、物語の読み聞かせと平和の講話をされた。子供たちはそのお返しに、母校のヒーロー福山雅治の「くすのき」を歌ってくれた。長崎でこんなことを口にすれば袋叩きにあうに決まっているから、これまで言ったことはないのだが、正直言うとその時まで福山の曲をいいと思ったことは一度もなかった。しかし、壁に大きく張り出された歌詞を目で追いながら子供たちの歌声を聴いているうち、図らずも涙をこぼしてしまった。初めて福山をすごいと思った。隣にいた追悼委員会の女性は僕の倍涙を流していた。そして、帰りの車中で彼女はこう言った。
「あの歌を持っている子供たちに私たちが話すことは何もないわ。」
 
 僕は、それ以後植樹に訪れた学校では、子供たちに「皆さんのおじいさんおばあさん、または親類の方が原爆にあわれたという人はいますか?」と尋ねることにした。ほとんどの学校でほとんどの子供たちの手が挙がった。僕の住む大村ではそんなことはないだろう。

 書いていたら、8月9日がやってきた。(投稿 福田)